零時

その若き芸術家は、とんかつで満たされた胃袋をスタバで癒している私に向かって、頭に触れてもいいかと訊ねる。ボールペンを貸してと言われたかのように、私はいいよと答える。彼は私の髪を掬うように、私の頭を両手で抱える。私の頭を引き寄せる。私の額は彼の呼吸を感じる。唐突に彼は「ああ!」と奇声を発し、私を抱きしめたかと思うと、世界中の薔薇の蕾が一斉に開いてしまいそうな満面の微笑みを私に見せた後、店を飛び出して行った。椅子を転がし、店の観葉植物をなぎ倒し、自分の鞄さえ忘れて。あっけにとられた周囲の視線を一身に受けて私は、椅子を戻し、観葉植物について店員さんに謝り、彼の鞄の中に、大切なものがないかを軽くチェックさせていただく。平静を装って自分の鞄から本を取り出して、しばらく本を読むふりをする。なにはともあれ、私は、あの笑顔を見られただけで満足。私を超して、遠く遠くのなにかに向かって投げられた笑顔であるにしても。行かないで!と絶叫したい感情を、抱いていない自分を幸いに思う。


今月の目標は、週に3日はお酒を飲まない。週に1回たりとも、酩酊しない。この二週間に私の体に消えたアルコールを思うと、少々気が滅入る。いずれも自棄酒ではなく前向きな飲み方で、飲み方としては褒めてあげられる感じなのだけど、それでも良くない。体を壊すわきっと。
しかしながら大きな精神的ショックに、不規則きわまりない生活に、絶対に狂うと思った生理はかつてないほどぴったりと順調にきて、26歳のこの女の健康で強靱な肉体に少しうんざりした。深夜2時の誘いは受けたくても起きあがれない体でありたい。残念ながら、私は平気。むしろ辛いときほど動いてしまう。知りたいと思う。必死に考える。一体、どんな電池で動いているのだ私は。


その人と別れた後に必ず通る深夜12時の路地裏に、眠る菓子工房がある。布のかかったショーケースの向こうには、金属のミキサーや秤が俯いている。一角にある発酵室では、おそらく酵母菌がクロワッサンになろうと蠢いている。鈍く輝く冷蔵庫の中には無数の卵とバターと生クリームがある。私はこの菓子工房に焼き上がったケーキたちが並ぶ姿を見たことがない。いつも、そこは、非常灯が照らす密やかな菓子工房。今日も霧雨の深夜12時にハートのステンシルが踊るウィンドウの前を通りかかって、思った。次の日曜日は、正午12時に、この店にこよう。そして、ハートのチョコレートケーキを、買おう。おそらく、行き場のないハートのケーキは、嘲って一人で食べる。そのときたぶん、少し、もう少し私は学ぶ。