仕掛け

女の子同士でセックスの話をするのは楽しい。私が一番気になるのは、まさにそのとき他の恋人たちがどんな会話をしているかということで、私自身は、あんまりべらべら喋られたくない派です。もちろん、一言耳元で囁かれたりするにはすごく刺激的だし、ちょっとした希望を告げられたりするのはいいけれど、あーしたいだのこーしたいだのどーだいだのひっきりなしに言われると、あー、うるさい、ちょっと黙れ、と思う。何度も言っているように私は全日本ロマンチスト選手権代表を目指す超ロマンチストなので、雨の音とか、新聞配達のバイクの音とか、その人の心臓の音とか、そういうことが非常に重要なんです。それに浸らせて欲しい。ただ、それも好みの問題で、私の友人 Aは乗りつっこみの練習をさせられたときすごくもえたらしいし、 Sはむしろ自分からどうなのどうなの?と訊いてしまうらしいし、 Tにいたっては明日の夕ご飯のメニューについて話し合うらしい。それで、みりんが足りないな、などと思って明日忘れずに買おう、と思うらしい。それからはずっと、みりんみりんと思いながらやるらしい。みりん。みりんか。本当に、人それぞれですねー。


このところ物欲を押さえつけていた。もう笑えないほど貧乏だった。それは今でも全く変わりないのだけど、このところあまりにも不景気で、恋も仕事も、髪型さえうまくいかない。笑う門には福来たる、というがその反対も絶対ある。このままじゃあうまくいくものもいかないわ。しかも午前中は、デブでマザコン童貞無能で不能の上司のセクハラに曝された(いやだわいくらでも悪態がつけちゃう)。耐えきれなくなって会社を飛び出し(取材にでかけ)銀座三越をふらりと訪ねた。ああ!!
正面入り口に設営されたランコムの特設スペース。明日発売予定のジューシーシェリーの先行発売をやっている。そこだけが明るく輝いているように見える。この数ヶ月、無理矢理押さえつけていたランコムへの愛情が一気に開花した。カウンターで新しいルージュを手に取る。店員さんがやってくる。カウンターに導かれる。あの、世界で一番幸せな空間。ずらりと並ぶ春の新色から、明るいピンクに大粒のラメが鏤められた日本限定色388番を選ぶ。筆にたっぷりとって、唇に重ねてもらう。この春めいた、幸せ色のリップに合わせてアイシャドウもつけてもらう。ローズからピンクまでが4色セットになったキャトルオンブル300。ああ。かわいいわ!なんてキュートな色。ローズ系のアイシャドウはすでに腐るほど持っているけれど、やっぱり去年のものじゃだめ。洋服や髪型に流行があるようにコスメにももちろん流行があって、毎年少しずつ色味が違う。古い色にすがっていると確実に時代遅れの顔になる。パール多めの淡いチークをブラシで大きく入れる。ランコム会心のマスカラ「イプノーズ」の新製品、ウォータープルーフを試す。すばらしくなめらかで、睫一本一本がすらりと伸びていく。
カウンターに座る前と後とでは、人生が違う。どんなに不機嫌でも、哀しくても、私はランコムで新しい化粧品を手に入れれば、少なくともその日一日は輝く。福沢諭吉の一人や二人がなんだ。私は、この世界にランコムがあって良かったと思う。感謝する。ロレアルサンキュー。
たぶん最も素直な感情が表せる所だから好きなのだ。本当にこんなもので美しくなれるとは思っていない。新色をはりきってつけてみても「昆虫みたい」と恋人に言われるばかり。でも、美しくありたいという願いが、なんの後ろめたさもなく素直に言える場所。受け入れられる場所。セックスの最中にべらべら喋られるのはいやだけど、その後のお喋りは好き。愛を告げたり、ずっと一緒にいようとか、いい加減だけどその場では唯一の本心を語ったり、自由に振る舞える唯一の時間。何の後ろめたさも嘘もない。ランコムのカウンターの幸福は、それにちょっと似てる。

あー。なるほど。そっか。つまりは、言いたいだけなのか私は。
愛してる。
美人になりたい。
だったら、言えばいいのにね。素直に。
本当に、 26歳の女が素直になるには、いろいろな仕掛けが必要なのね。大切な福沢諭吉を手放したり、寡黙なセックスを望んだり、そんなめんどくさいことしなくても、いいのに。全く。
さて。ネイルを塗り直して、寝ることにします。おやすみなさいませ。

カフカ短篇集 (岩波文庫)

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