かなたまで
今日は兎の匂いがする。
幼い頃、祖母がくれた兎の足のお守りは、所持するのも拒むのも残酷すぎて、心に強く突き刺さった。
それは、獣の、神聖な、匂い。
ほんのりと温かく、実際の重量以上に重い。
どこに、潜んでるの、兎。
でておいで。今なら、おまえに私の足をあげる。
でも。
待って。あの地平線の向こうまで、歩いていってもいい?
わがままな、私の最後の願いを君の足で、叶えて。
そしたら、私の両足とも持っていっていいよ。
もう二度と、歩いて戻れぬように。
午後 2時丸ビルの35階から雨に煙る東京の街をみる。眼下のビルの屋上からは水蒸気がもくもくと立ちのぼり、向かい にある建設中のビルのフロアの工事の閃光は雷のよう。
ここは本当に35階なのかしら?
眼下には雲。目の前に雷。私は天空の、核シェルターから東京の街並を目に焼き付けようとする。下界でのいざこざは些事。この出来損ないの脳に、刻みつけられるだけ刻みつけて。
30分の睡眠しかないこんな日に限って打ち合わせは3本。帰社して夕暮れからの最後の会議では、窓の外の桜の枝に連なった無数の雨粒を、眺める。体と心が離れると、やけに視界が鮮明で、吐き気をもよおす。ワックスを思わせる香水と、おそらく風水の教えにしたがって選んだ赤のジャケットを羽織った部長の説教を30分聞く。どうしたらそんなに厚化粧になるのかいつか機会があれば訊いてみよう。薄暗い中庭のコイの池には雨の波紋が現れては消え、私は、私の人生があの波紋のうちの一つであることを思う。かん高い、部長の声の向こうには熱帯魚のヒーターの音。ああ、ここは病院の待合室みたい。フルーツ牛乳を、買ってもらうのよ。楽しみなのよ。
その人は、「興味ない」と世界を切り捨てる私を、無関心で不真面目と叱ったけれど、だって私は、今そこにいるその人だけが私のすべてで、見えてない部分を想像すればおそらく苦しくてつらくて死んでしまう。その人がずっと大きな世界を見ている傍らで、私は彼とそこにつながる世界しか、見えない。分からない。
愛した。間抜けなほど。
強いとか弱いとか信じるとか裏切るとか、
どうでもいいわ。そんなのしらない。
約束を求めないこと。
今だけを愛すること。
笑顔だけじゃだめなこと。
過酷な決まりは、乗り越えるにはあまりに険しい氷山で、
冷たくて痛くて、もう、無理なのよ。
ここで立ち止まっても、氷の中に閉ざされるだけ。
温暖化で、溶けだして、数十年後蘇るのは嫌なのよ。
覚悟が、できたのねようやく。
声も姿も遙かかなたにすら、見えない遠くまで、逃げればやがて、想いは消えるだろう。
まずは800キロから。
やがて海を越えて。
そろそろ、凡庸な、26歳の女が住むべき世界に還ろう。
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