sumikko2005-02-09

風のように走り去った芸術家の携帯は、二日目までは何度かのコールの末留守電になったが、三日目からは電波の届かないところか電源が入っていないためおつなぎできなくなってしまった。五日目の夕方、取材先からの帰社途中、ドトールで一休みする私の電話が鳴る。相変わらずのらりくらりとした口調で、ひさしぶりに逢いたいよと言う。鞄が返したいよと私は言う。いったん帰宅し鞄を持って向かった彼のアパートは外から見ると真っ暗で、絶対寝てるんだろう。おそるべきマイペース。ドアをぶっ壊して入ろうかと思ったがとりあえずノブを回したらすんなり開いた。鍵、かけろ。カーテンのない夜の部屋は月明かりに照らされて、いろいろなオブジェの輪郭が見える。灯りをともすのはひどくもったいなく思う。暗闇に侵入する。煙草の匂いにむせ返る。テーブルの上の灰皿に吸い殻が山のよう。何が「Peace」だ。以前来たときと、家具の配置が変わっている。尤も家具と呼べる代物でもないけれど。以前ベッドがあった場所にはおそらく金属でできた物体がある。もしかしたら人の形なのかもしれない。
右奥の方から、規則的な、寝息が聞こえる。
生きていた。良かった、と思う。


今、望むのは、本を読む時間。今日は帰りに池袋のジュンク堂に寄って、薦められた本を幾冊か仕入れてきた。会社なんか行かず、ずっとずっと本を読んでいたい。いろいろなことが、知りたい。学びたい。私の頭で考える能力が欲しい。なぜかと問われれば、今なら26歳の女らしい開き直りで赤面することもなく答えることができる。たった一人を理解するため。結局私はちっぽけな、恋するただの弱い女で、世界のすべてはその人を中心に廻っている。その人がいるから、ここにいる。生きている。私が私の恋を語るとき、誰もが首をかしげる。止めろとさえ言う。でも対等な恋愛なんて、興味ない。圧倒的な能力を持つ人の前に、この私が何を求めると言うの。愛する自由をくれるなら、それだけで幸福なこと。
そういえば、私の愛した人は皆、乾いた匂いがした。晴れた初夏の昼前にフレアースカートの中を駆けめぐる、向かい風のような。その風は少し強くて肌を軽く叩く。私は自分の肉体を思い出す。とても心地の良い風。かつて、私も同じような風でありたいと願った。でも今は、丘の上に突き刺さった棒のようであってもいいと思う。その風を浴びながら、時折飛んでくる風船とか綿毛とかあるいは紙くずでも、なにかが棒に引っかかる。もしかしたらそれは意外にも棒を彩って、偶然美しく見えるのかもしれない、と思う。