愛着

去年の春、私は、すべてが、わからなくなって耐えきれなくなって、8日間、消えることにした。
消えていた8日間は夢。でもその夢の中の夢ですら私は、その人のことを想った。
目覚めていても、夢見ていても、なにも変わらなかった。
結局8日間の不在は、その人には全く何の影響ももたらしてはなくて、それは、失望したけど、安堵もした。
それだけ、自由に愛せると思った。
告げることは無意味だと、思った。


愛している、と言う。
愛している、と言わない。
どちらにせよ、そこには二人がいて、交わす言葉と体はあるのだ。だから、そこに大差はないような気がした。愛しているという言葉の向こうにあるものも、お互いに全く異なるのだから。


だけど。


この週末は、感情がフィヨルドだった。それが、本当に奥深くまで抉られたとき、あまりにも海水が冷たくて、久しぶりに友人に、この瀕死の私の心の内の、言葉をぽつりぽつりと絞り出してみると、いつもは一捻りある返答が爽快なその人の口から「でもそれほどまでに人を深く愛せるなんてすばらしいことじゃん」とごくありきたりな言葉がでてきて、驚いたことに私は、ドトールでばらばらと泣いた。26歳にもなって。初めての恋でもないのに。まるで少女のように。このあまりの絆のはかなさが、とにかく哀しかった。異様に透明な涙だと思った。でも、そうね。すばらしいこと。


3日間の連休は最後の夜だけが重要で、ここのところ体調が優れなかったので、最初の二日は体力を温存することにつとめた。前日は「明日会わないよ」というメールが来た場合に備えて、あらかじめ返答を用意した。幸いにもそれは無駄な準備だった。たぶん、次に私と付き合った人はものすごく得だと思う。デートの約束がきちんとできれば、私はその人のことをすばらしい人間だと思う。約束の時間ぴったりに来たら、驚いてお礼を言って、よくわからないけど謝りさえすると思う。
訪れたレストランは、くつろいだ雰囲気のおしゃれで美味しい店で、これは東京特有のものだと思う。他のどこにもあり得ない。私は、とても東京らしい人と東京らしい場所で、東京らしい時間を過ごす。これ以外のものなんて私の人生にはない。そして、わかってもいる。ここがゴール。これ以上のものも、ない。
だから、再び逃げ出したくなる。
今度はどこへ?
どこでもいい。正しい場所へ。凡庸な、ただのひとりの女が住むべき場所へ。
それでも、ぐずぐずしているのは、逃げ切れないとわかっているから。800キロ離れようと、海をいくつ隔てようと、私は絶対に逃げ切れない。だから、駄々をこねて、見え透いた幼いデモンストレーションを繰り返す。


お願い。逃して。


深夜、切望していた梅を見た。路地で、肩におでこをつけた。私は振り切って駆け出す。危うく車に轢かれそうになる。轢かれれば良かったのに。丘をひとりで上る。そして、思う。その人に纏わるすべての記憶を消す薬があれば、私はその薬を飲むだろう。好きになるより嫌いになるほうが、ずっとずっと難しい。



セックスの後の絶望よりもずっと深い、悲しみをたたえて霧雨の朝のホームで電車を待つ。そして、いきなり、その悲しみの原因がわかった。
その人は、私が出会ったときにはすでに逃げ出してしまった後だったのだ。
そして、どうやらうまく、逃げおおせたらしい。
もう、戻ってくる気はないらしい。
遠く、遠くにいるのね。だから、私の言葉も涙も、届かない。情熱も。


体温も?


流れ込んできた電車の窓ガラスに映る、ふわふわのニットを着た私は、部屋の隅に転がるぬいぐるみを思い出させた。6歳のときに買ってもらったクマのぬいぐるみ。10歳のとき、初めての上京にはそれを連れてきた。大学進学で上京するときも連れてきた。今でも、私のアパートに佇んでいる。
すがるのは、愛着だけ。
今すぐアパートに帰って、抱きしめたくなる。いつまでも一緒にいて、て。