喜劇

sumikko2005-02-22

私がどれほど過酷な恋をしてきたかというと、どうしても声が聞きたい夜に声が聞けたことはなかったし、待ち合わせに遅れるという電話があれば親切だと思ったし、定時にそこに相手がいれば奇跡だと思うくらいだった。前触れなく「結婚しよう」という言葉を発した相手の意味するところは、おそらく私にとっての「もんじゃ焼きを食べよう」くらいの感じなんだろうと理解することにした。前向きな私はそれを様々な愛の形だと受け入れてきた。でも、「結婚しよう」は「結婚しよう」だし「もんじゃ焼きを食べよう」は「もんじゃ焼きを食べよう」だ。弱虫の私は、そこで驚いて問い直すよりむしろ、笑って快諾してきた。受け流してきた。何が怖かったの。怖いの。


半年くらい続いた別れる別れない論争に終止符が打たれ、シングルの身として再スタートを切るとしゃかりきに合コンをセッティングしていた友人から電話があり、「モトカレから電話があって、やっぱり君しかいない、一生付き合うつもりでやり直したいって。どうしよう。でも上手くやってく自信ないな」。彼女のことが結構好きな私は「ばーか。やり直す気満々のくせに」と言う。なんて親切。本当に悩んでるんだと主張する彼女はもうちょっと考えてから返事してみる、と電話を切ったが、耐えて耐えてついに今週末には彼氏に電話するだろう。私なら、道は一つ。悩むことなんかない。「結婚しよう」は「もんじゃを食べよう」と理解して、「やり直そう」の返答には躊躇しない、私。どこまでも不器用で、不器用で不器用で、結局すべては喜劇になったけど、私には悲劇だ。


日付の変わる前、家までの道のりはとても寒かった。本当に寒かった。この一月は、この二年くらいで一番泣かなかったなあ、と思った。辛さはまず肉体にきて、心にようやく届いてきた。どこかに向かわなければ。だってもう待つものもない。ひとつのものを諦めるのに、すべてを捨てることは無駄だとも大げさだとも思わない。昨春に旅をしたとき、私はいつもその人を連れていた。その人のことを考え、その人にもう一度出会うために旅をした。戻るために旅をした。次は、自分だけのために旅をしよう。戻ることは考えない。最後でいい。そう思った。だけどそういう態度で、生きる私のなんてつまらないこと。結局は、何を考えてどう生きようが、自分のため以外に他ならない。それならば、その自己中心的な人生に、限りなく私の身勝手にその人を含ませていた方が、何倍もすてきだわ。その人は、そんな人生を私につきつける。なんて残酷なこと、と思いながら、久々にばらばらと夜道を泣いた。全くつまらない女になりさがった私をさらして久々に情けないと思った。でもこの世で一番好きな丘にさしかかると、寒さが和らいだ。その人の興味のない梅の花はもう八分咲き。今週末には、ちょうど満開になるだろう。この丘が好き。少なくとも、この丘だけは嘘偽りなく、名残惜しいと思う。