記憶力

テレビが壊れて久しい。だから今月はクラシック強化月間だ。薦められて買った小澤征爾指揮のベルリオーズ幻想交響曲と、クライバーニューイヤーコンサート'92は素晴らしかった。クライバーモーツァルトブラームス交響曲もとても良かったのだけど、今はまだなんとなく良いと言えるだけで、どこがどう良いと言えるほどの知識はない。今月はクラシックを聴き倒すぞー。あ!でも今月と言ってももう残り半分だ!うわー早いね今月。


深夜3時に鳴り出す家の電話は親族の不幸か自己中男のどちらかで、幸い今までは100%後者だった。
まだ9割方夢に足を突っ込んだ状態で取り上げた受話器の向こうの相手は、予想していた自己中男とは違い、遙か海を越え国境近くのビールの旨い街で生きる自己中男だった。開口一番「ハイドン交響曲が覚えられない」。最後に肉声を聴いたのはいつのことだったけかな、と思いながら、一度付けたスタンドの光は眩しすぎで、再び闇に戻した室内で、朦朧とした頭の中のハイドン交響曲のフレーズを探す。「時計」と「熊」がかろうじて鳴る。なにか返答せねばと、「うーん、シンプルで覚えやすそうに感じるけど」と無理矢理言葉をつないだとたん、罵声が帰ってきた。そしてハイドンのリズムと旋律の複雑さについて延々と講釈が始まる。いつだって、そうだ。私にどうにかしてあげられることは、なにもない。何もできないこの距離と立場が、この自己中男に安寧をもたらすのだろう。本当に助けを借りられる相手には、怖くて面倒で、その不安が吐露できないらしい。
その虚しさを嘆く情熱も、ばかにしないで、と、怒鳴る情熱も、消え失せて久しい。切れた電話の後の静寂に、漂うのは虚しさでも淋しさでもなくて、ひたひたとした面白さ。愛情の一種。ああ、悟りさ。26歳にして辿り着いたこの境地。進行中の恋に、適用できないものかと思う。

そして体温が、ぎりぎり伝わる世界での、不可思議な関係は続く。終わった恋は、終われなくても、終わった恋。私の存在意義を問うのは止めよう。とりあえず、楽しければそれで良い。本日は極上の一日と言える一日だった。

両親に、感謝しているのは毛深くなく生んでくれたことと、曖昧な記憶力を授けてくれたこと。私はその人の記憶力の前にただ呆然とする。それほどの記憶は私を押しつぶして殺してしまうと思う。良かった。私がいつもバカみたいにへらへら笑っていられるのは、本当にバカだからだ。良かった。だから、いつでも新しいことが知りたいし、辛い記憶は簡単に忘れてしまうから、こんな不毛の恋にも、未だに希望を抱いてしまうのです。