失敗


愛される資格がないとは思わないが、愛される才能はないとつくづく思う。愛する才能については分からない。でもたぶん全体的に私は失敗だ。


アエラの巻頭特集の「地方出身女は損」というタイトルに惹かれ、数年ぶりに手にとってみる。今さらそんな分かり切ったことおっしゃられてもなーと思いながらも、「あ、この冒頭の東大女、絶対私と同じ高校出身だ」などと思い楽しく読んだ。まあ「負け犬」だの「損」だの、おもしろおかしく書いてるだけだから別に良い。地方出身女は損だ。そんなの当たり前だ。だからどうなんだ。
 
一昨日は夕方上野で取材を終え、そのまま上京中の両親と夕食を食べる。根津にある居酒屋。なんということもない居酒屋だが、まあ雰囲気だけは良い。太平山の熱燗を酌み交わしながらもうすぐ定年を迎える父と語らう。様々なものを犠牲にした40年間で地方出身の損な女を二人も創出した父が手にする退職金は私が一生かかっても到底稼げない額。帰ってこいとか結婚をしろとかうるさいことを一言もいわない。だからときどき帰る実家は最高に居心地がよく、未だ娘二人は両親に精神的パラサイト。たまに上京する両親に、私がごちそうするなら良い。それは優しい優しい親孝行娘。格好も良い。しかし私の微々たる収入ではとうてい恰幅の良い父の胃袋を満足させることはできまい。「金の切れ目が縁の切れ目」とかんらかんらと笑いながら言う父は、「ありがたいことで、わざわざ時間を作って娘二人が食事や旅行につき合ってくれる」と言いながら、私が選び予約した、私の自腹では行き難い店の支払いをすます。とたんに、「地方出身女は損」というアエラ主張が心を満たす。損だ損だ損だ。何を無理してここにいるの。どうせいちばん欲しいものは手に入らないのに。こんなところで中途半端にパラサイトしてるよりも、正々堂々パラサイトになって、実家で負け犬となってのんびり過ごせばいい。結局私は安い女。実家通いで私の倍近い給料をもらっている女が、それでも全然足りないと嘆いている傍らで、私は収入の半分近くを家賃にとられそれでも欲しいものは買える範囲で手に入れて幸せ気分に浸れる女。夫婦喧嘩など一度もみたことのない、穏やかな両親の姿を見つめながら、一体後、何回彼らに会えるの、と思う。ここで不確かなものを追っていつまでも少女気分でいるよりも、さっさと田舎で中年になってしまえばいい。そういえば、子供の頃、社宅の子供持ちの女性はすべて「おばちゃん」と呼んでいた。その中には今の私よりも年下がいた。私には、確信をもっておばちゃんと呼ばれる資格すらない。やがて本当におばさんになっておばさんと呼ばれるだけだ。
結構な量を飲んで、「ではまた夏に」とがしっと堅く握手を交わして両親と別れる。帰り道、比較的混んだ電車内で痴漢にあう。ミニスカートに生足だった。でも残念でしたー。スカート直下はあったかインナーだもんねー。私の4000円の芸術的に美しいパンツには絶対触れないもんねー、と思いながら、それでもミニスカートで生足で夜の電車に乗っているだけでこんなに簡単に痴漢にあう、世の中の単純さにうんざりした。だったら私だって、愛してる愛してる!!と喚いて手首にカッターを突き付けたい。そのまま帰れず、下北沢で降りてコーヒーショップで甘い甘いコーヒーを飲んだ。逢いたい人が強烈に心に来た。でも逢いたいときには絶対逢えない人だ。ランダムにかけていたiPodから流れてくるミスチルのHEROに思わずぼろぼろ泣いた。盛大に泣いた。私は男の中の女の子らしさを愛した。突出した感性に憧れた。決してヒーローになりたいなんて言わない男が好きだった。口が裂けても君を守りたいなんて言わない男。でも今は、少年らしさに頼りたい。ヒーローが欲しい。


昨日はちょっとしたお祝いで、恵比寿のイタリアンに行く。詰め込んでも16人入るか入らないかの小さな店だが料理も雰囲気も最高で、おそらく都内でもっともお気に入りになるだろう。ボトルで4000円の赤ワインはすばらしくコストパフォーマンス良し。馬のタテガミやタンの刺身は初めて食べた。特にレバーはこりこりとしていて嫌味のない旨味。馬肉の炭火焼き、猪肉の煮込みも絶品。クルミとトリュフのペンネはこの一年で食べたパスタの中でナンバーワンを差し上げようと思った。丁寧に入れられたエスプレッソを飲みながら、デザートにティラミスまでいただき、満腹。幸せ。その後、バーに行き、ひさしぶりにモルトウィスキーを飲む。不覚にも酔っていたので名前を覚えてないが、どこかのボトラーズものでボウモアが1割だけ入っているというカスクストレングス。非常に端整で上品。ふとよぎるボウモアの個性が愛らしい。店を出ると、逢いたいときには決して逢えない人からの着信に気がついた。電話をかけなおしても、出ない。本当に、決して逢えない人なのだと、たぶん一生逢えない人なのだろうと、帰りの電車の中で酔った頭で、HERO を聴きながらぼんやりと思って泣いてみる。そして泣くというのは習慣なんだな、と思う。想いが一定を超えれば伴って溢れてくるだけ。どうして、我慢する必要があるのだろう。どうして、泣いてはいけないと信じているんだろうね、と思いながら電車の窓ガラスに映った自分の目の下が落ちたマスカラで真っ黒になっていることに気づき、そっか、醜いからかと思う。