まだあなたを愛してるって

久々に晴れた午後、寒風吹きすさぶ中チャリに乗って市内散策に出掛けた。城、堀川、本屋をめぐりいつもの喫茶店に行く。カフェメランジェを飲みながらフーコーの「性の歴史」を読みかけるものの集中力はぶつぶつ切れる。再びチャリをこぐ。橋の真ん中でふと見ると、暮れかけた太陽と冬の空の景色が、それは、それは美しい。



思わず自転車を降りて眺める。湖からの風に、耳が切れそう。唇が痛い。それでも、こんなにきれい。なんで、こんなに美しいのかしら。なんのためにこんなに。この橋には、私ひとりしかいないのに。
ある、満月の夜のことを想い出す。
まだ私が恋の昂揚のまっただ中にいた頃、なじみのバーテンダーが「南の島に移住した」と便りをくれた。一人でバーで行く女にとってバーテンダーは性別を超えた恋人。恋心がなければそのバーには行かない。だからといってそれが現実の恋になることは、まず、ない。そのバーテンダーもそういう一人だった。気が利いていて最高に美味しいカクテルを作った。後に偶然その南の島を訪れる機会に恵まれ、久しぶりにそのバーを訪れた。南の島に似つかわしくない、オーセンティックなバー。相変わらず美味しいカクテルを作る。気持ちよく酔い、話の流れでその夜店が終わってから海に連れて行ってもらうことになった。その夜は満月。大潮の夜で深夜2時頃干潮を迎える。目的はエビ捕り。潮が引いた後の浅瀬には小エビがたくさんいるという。いったんバーテンダーの家に行き、奥さんを拾う。頭につけるライトや長靴などを貸してもらう。再び砂利道を車を飛ばして海にでる。昼間とは打って変わって海の始まりは砂浜から遠く、遠く。ようやく波打ち際まで歩いてきてもそこからさらに数百メートル膝下の浅瀬が続く。満月の光は不自然なほど明るく、白黒映画の午後の景色のよう。海は凪いでいてガラスみたい。時折の風でたつさざ波が月の光を散らし海はまるで宝石を、鏤めたようになる。その小さな波紋がおさまったとき、海底で赤い小さな光が瞬く。それがエビの目。意外に敏捷なエビたちに逃げられぬよう素早くすくい上げると、わずか3センチほどの小さなエビが手のひらにいる。体は半透明。目だけが赤く小さく光る。やがて目が慣れると、海底には無数の小さな赤い光があることに気づく。月のかけらが海面に散り、それが消えたあとには国際線の飛行機の窓からどこかの夜の都市を見下ろすように、赤い光が小さく光る。しばらく夢中でエビを捕る。その後痛くなった腰を伸ばそうと辺りを見渡して、この月の光に、赤い小さな光に、どこまでも続く漆黒の海に、あまりに明るい満月のために星ひとつない真空の夜空に、体が張り裂ける、と思った。季節は一月。東京の厳しい乾燥と寒さを逃げ出して、行き場所を失ったばかりの想いを体いっぱいにたたえて、私は南の島にいる。数十メートル先に、ヘッドライトをつけてエビをとる夫婦の姿が見える。南の島に移住するのは夫の夢だった。一方妻は、陽射しを浴びられない体。南の島に移住すると言ったとき、周囲は気でも狂ったかと言ったという。だからふたりは、月明かりの下出掛ける。深夜、夫の仕事が終わってまた太陽が姿を現す前までの間。その関係はあまりに完璧で、私に疎外感なんて陳腐な感情すら起こさせない。奇跡だと思う。二人でいることは、素晴らしいと思う。だけどこの孤立した二人きりの世界は、なんて危険。それは甘い幻想のよう。幼い頃夢見た、無人島での生活のように。仮にそんな世界にいる私は、いつか意に反して破壊し始めるかもしれない。雲の上におうちを建てるの?涙の雫で作った真珠の首輪はいつか砕けるんでしょう?
そんな夢は続いていい。終わらなくていい。でも私は壊さずにはいられなくなる、きっと、たぶん。それは私が健康だからか、それとも不健康だからかな。
湖からの風に体はすっかり冷える。冷えていいと思う。その景色に同化したいと願う。もはや疎外された私でも、美しいことは分かる。この美しさに染まりたいと思う。
最も言いたい言葉が、頭に浮かぶ。迷惑な言葉。でも正直な言葉。肺胞を破くほど痛い空気を吸い込む。
明日は東京に帰る。帰れる。