The great stage of a fool

このところ、縁あってめちゃくちゃいいものを食べる機会に恵まれていた。たとえば神楽坂の客単価 1万 5000円が相場の料亭とか、ウェイティングルームのあるフレンチレストランとかちょっと前だけど蛍の舞う中華とか(もちろん自腹じゃないです。運が良かっただけ)。実際に 1万 5000円っていう価格は食べているときはそれが適正かどうかよくわからない。でもまあ、一般の人が気軽にこれないところで食事会を催す必要のある人がいるということは理解できる。もちろん料理は美味しいし、サービスも良い。でも、お刺身だけなら実家でもっと美味しいものが食べられるし1万 5000円って高いよね、どう考えても。で、中間くらいってどうなのかと思って、客単価 5000円から 7000円くらいの店にいくつか行ってみた。結果。中間はやっぱし中間でした。中途半端。オール 70点というのは、店としてものすごく不満が残る。なにかが 30点でもなにかが 9 8点とかならその店の評価ってかなりなのだけど。昨日のお店は古民家を改築したおこもり感いっぱいの和食ダイニング。雰囲気はいいけど、もうちょっと味がよければなあ、と思う。まずくはないけど、特に美味しくもない。やっぱり、1万 5000円はすばらしいです。奇をてらったものはないけど、食材がいい、仕事が丁寧。しみじみと美味しい。それじゃなければ、客単価 3000円から 5000円くらいでわいわいと楽しんで飲める店がいいな、私は。でもまあ、私よりもずっと所得が高ければ、普段のお食事に 7000円もそう痛くないから文句もないのかしら。あー、読者が求めてるよいレストランってなんなの?などと、このところグルメ関係の仕事をしているので、いろいろと考えてます。一日中飲食店のことしか考えていない。これはこれで疲弊する。なんにしてもお仕事は大変です。
そういえば、ちょっと前に父親と一緒に和食を食べに行った。タクシーで店の前につくと、番頭さんがでていて雨も降っていないのに赤い大きな傘でかくまわれるように門から玄関へと案内される。いやにそそくさと個室に通される。後に、私が父の「愛らしい人」と思われていたことが判明した。あー。なるほど。でもやだよな。こんな顔の似た愛人。


賭について。
ある、賭をしていました。まあ人生を左右しなくもない賭なんですが、そんなこと言ったら日常のすべての選択は人生を左右するし、すべてが賭なんだけど。もし負けたら自分が圧倒的に辛くなるような賭。私はプライドよりも好きな方を優先する快楽主義者なんですが、珍しく、本当に珍しく、もし負けたら自分に辛い選択を課す賭、のはずだった。しかし、だんだんずれてくる。相手はこの賭を知らない。もし知っていれば賭の結果は変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。でも、私は当然打ち明ける気はない。つまり、最初からすでに自分が望んでいる結末がある。今更の賭。言葉を変えてみただけ。テンションがあげたかっただけ、とも言える。ああ、相変わらず陳腐です。賭の半ばから回想に入る。人生にこういう場面がいくつかあったな、と思う。その時分に賭という認識があったかは別にして、いくつかこういう人生最後の日を経験した。何回かは、私が賭けられたこともあるかもしれない。きっとその日私は、その賭に気づかず無邪気であったと思う。善意も悪意もなかった。そして失ってしまったんだろう。哀しいのは、失ったことに気づいていない私。せめて、失ったことに、気づきたかった。きっと、私も気づかれていないだろう。そもそも「得ていた」事実すらなかったのかもしれない。まあごく些細なことだけど。世の中にそんなことって満ちあふれてるのだけど。なんにせよ、自分の行動に名前をつけて宣言してみるのはいいと思った。「四半世紀に一度の賭」とか大げさなまでの。ということで、「泣きの音楽」を聴いてみる。 2時間半後くらいに、時間差で涙がやってくる。久しぶりに泣き疲れて眠る。でも泣き疲れて眠るというより、さあそろそろ泣こうかなと思ったら眠くなって寝てしまったという感じ。世の中、こんなに、薄かったですか?

しかし目覚めは幸福だった。福山雅治とつきあっている夢をみた。特に好きじゃないはずなんだけど、 15ヶ月に1回くらい福山雅治とつきあっている夢を見るんです。もしかしたらすごく好きなのかも。最初の頃は私、なんて身の程知らずな、とか思ってたんだけど、最近では福山雅治も私のことが好きなのかもしれないと思い始めた(ちょっと病気)。好きなタイプとかいうのはあんまりはっきりしなくて(はっきり言えちゃう人って尊敬する、小野真弓似がいいとか)とりあえずインテリならなんでもいいんでしょと言われれば反論もできませんが(でも好きなタイプはと尋ねられたらきちんと答えられなくては芸人としてやっていけない。この週末はまじめに考えてみよう)、そんななかで重要だと思うのは、立ち位置。このくらいの位置に立ってくれると心地いいという位置があって、どんなにいい人でも、「あ、ちょっと近い」とか「遠い」とか思うとたぶんだめだろうな、と思う。基本的に生きる世界のようなものが違うんだろうと思う。で、さっきテレビを見るともなくつけていたら福山雅治のドキュメンタリーみたいなのをやっていて、それで、ちょっとやられてしまった。ほら、彼って写真を撮るでしょう?カメラを構えるときの肩の感じがすごくいい。あっ!この肩だ!と思った。持っているカメラもかっこよかった。ものすごく彼に馴染んでいた。肩が好き。でも。(タモリ倶楽部のエンディングみたいに)単体で肩があっても別にもえる訳ではなくて、ときと場合によるんです。だから説明はしづらい。好みを言うのはとても難しいですね。あー。最初と言いたいことがずれてしまった。まあいいや。おやすみなさいませ。