シンデレラ

昨日は、キレイで元気になろうとmacadiaをひたすら飲んだ。と、いうかmacadia以外は、氷結とカシス、ライチ、ストロベリーリキュールしかなく、ワインはフランジアという非常に惨めな状態だったので、いたしかたなくmacadiaを飲んでいた。食事も、「冷凍野菜の盛り合わせ」や「ゴムみたいなチーズのクリスピーピザ」や、「ポパイも萎えるほうれん草とコーンのバター炒め」みたいなものしかなく、食べられた代物ではなかったため、空腹にmacadiaソーダ割りとかオレンジジュース割を飲んでいたので、今朝は体調が悪い。お腹の中央がずっしり重い感じ。キレイなどころか元気ですらなくなってしまった。
このところ、今更ながら「美味しいもの」を追い求める姿に醜悪なものを感じて、自分の仕事に嫌気がさしたりもしていたが、まずいものが存在するのには心底疲れてしまう。食べたものが美味しいもの、という全うな世界に、どうして生きられないのかしら。

昨日は六本木ヴァージンシネマズにて成瀬巳喜男の「乱れ雲」を観た。すばらしかったです。森光子、いいですね。美人ではないがとてもチャーミング。「浮雲」を見逃したのは口惜しい限りだが、まあこれはまたどこかで観る機会があろう。これからの8本は全部観に行こうと思う。しかし朝10時半から1回きりというのは辛い。休みの日にそんなに早く起きられるわけないから、仕事をさぼって見に行くしかない。困ったわ。

先日、自分で「複製時代の芸術」と言っておきながら、それが誰の言葉かすら知らなかった無知な私。もう恥ずかしくて、これからはやっぱり本について書くのはやめよう。

ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)

ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)

人生で、一番本を読んだのは、21歳の秋のこと。唐突に好きになって告白してふられてから1ヶ月ちょっとの間、大学にもバイトにも行かず、友達とも会わず、携帯の電源も電話線も切ってひたすら本を読んで映画を観ていた。たくさんの本や映画を消費したが、五感の中で唯一生きていたのは聴覚だけで、ごろりと寝転がったベッドで目を閉じたら、秋の雨の音がした。あの頃の読書が身になっているかというと、あまり実りあるものではなかったと思う。とにかく「動物のように」読んでいた。でも、一番小説を欲していた頃だ。今でも人が本当に小説を欲するのは、そこに救いを、教えを、答えを求めるときだと信じている。文学者は、文学者に向けてしか書いていないなんてそんなこと知らないわ、と思う。でも。
その人の教えてくれる世界はとても魅力的。君の日常感覚という尺度だけで読んで何が楽しいのか?その人は私にそう問った。そして私の不真面目を叱った。私の思考停止状態を。私は、感覚でしかものを語れない。だから語らない。その感覚すら怪しい。なんの力も持たない私の言葉。だから泣くしかなくなって、そんな涙に説得力はない。気が向いたときだけ教えてくれる、その人の講義は私の人生の中でとても貴重な瞬間で、私は優秀な生徒ではないけれど、その人の教え子の中では一番真面目な生徒なはず。
それでも、基本的な姿勢は21歳の秋となんら変わっていない、とも思う。私は、やっぱり、救いを求める。教えを求める。答えを求める。
愛されるためにできる私のすべて。
凡庸な、26歳の女。これほど退屈な人生があるかしら。
わからない。わからないからやっぱり、本を読もう。考えよう。残酷な結末しか待ち受けていない物語。でも「小説に物語を求める」のは「間違い」らしい。大切なのは今、この世界でどう表現するかであって。幸せな物語を求めているなら永遠にシンデレラでも読んでおけば?
残酷な、結末でもかまわない。今、この瞬間、私がどうあるかが問題であって。