despair

大学に入って少したったころ、肉と魚を1ヶ月食べなかったことがある。たぶん読んだ本かなにかに影響を受けたんだろう。特に激しい決意じゃなくて、食べなかったらどうなるかなーと思って食べなかっただけ。当時は今ほど肉を欲していなくて、それは特に酷な一月ではなかった。居酒屋では冷や奴とか枝豆とか食べとけばいい。全体的に油分が不足して肌がかさついたけど、たぶんそれくらいだった。むしろ体が軽くなって良い感じだった。

単純な私はクッツェーの「動物のいのち」を読み、今日一日くらいは、肉を食べることについて考えてみよう、と思う。下腹部に鈍痛。食欲がないので、ランチはコーヒーだけ。ホフマンスタールを読む。このまま帰って眠りたいよー。そんな日に限って午後は焼肉屋の取材が入っている。一歩店に入っただけで、ただでさえ匂いに敏感になっている体に獣臭がまとわりつく。吐き気を堪えて取材をはじめる。羊肉を一年中食べていたらこんなにエネルギッシュで饒舌になるのかというほど空回りの情熱でしゃべりまくるおそらく30過ぎの男性の店長が、生後一年未満の羊肉の旨さについて、その香りや食感などを、実に事細かにありきたりな表現で、延々と語っている。「自慢のランチを食べてもらいたかったんだけど、もうランチタイム終わってるんだよね〜残念!!」となんとか侍を意識したようなそぶりを見せている。某ファーストフードの会長の著書から好みの箇所だけさまざまに引用して信念らしきものを訴えている。食べるとは、人を良くすると書くのだと、その徹底的にコスト削減された、簡素ともいえる店内で、私に教えてくれる。鞄の中で「動物のいのち」が震えている。その日は珍しく同行取材で、連れの女が店長に「もし5000円で食べ放題とかいうのがあったら絶対来ます!私!」と言っている。腹一杯食べて飲んで客単価3000円の店で、あとどれだけ食べようと言うんだこの女。私はそんな異世界で、必要なことだけを事務的に聞きだして、顔写真を撮らせてもらう。カメラを向けて「脱がなくてもいい?」と訊かれても、仕事用の笑顔ははりつけたまま。
ものすごく疲弊した。自分の仕事が心底嫌になるのは、こういう日だ。とりたてて失敗もないし、なにも悪くもないけれど、もうなにもかもが自分に合わない、あの嫌悪感。
携帯を見るとメールが入っていた。震えていたのは「動物のいのち」ではなく携帯だった。メールを見ると、既婚の友達からだった。「妊娠したみたい。でも今はまだ欲しくないからおろそうと思う」。絶句して、あまりのショックで、本当に、もう。


ヴァレリー・セレクション (上) (平凡社ライブラリー (528))

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