ずれ

笙野頼子の「金比羅」を購入。「タイムスリップ・コンビナート」は挫折したものの、気になる作家ではあった。待ち合わせまでの間、渋谷のドトールでソイラテを飲みながら(豆乳大好き)読む。まだ10分の1くらいしか読んでないのだけど、出だしからぶっとぶ。主人公は40歳後半の処女のおばさんで、金比羅様なんです。これからその話がとくと語られていく模様です。楽しみです。読んでいくうちに私は物語から離れて幼い日の出来事に飛んでいく。カーペットや窓の向こうに広がる笹の葉の景色、洗面台の高さの記憶から、たぶんまだ4歳か5歳の頃。ある午後私は、洗濯物をたたむ母に、姉と私、どっちをより愛しているかを問った。母はほんの少し考えて、比べられないねえと答えた。私はそうか、と思った。そのとき私は、青い絨毯を海にみたて、画用紙に描いた魚にクリップをつけ絨毯に泳がせて、糸の先にU字磁石をつけた棒を竿にして釣りを楽しんでいた。座布団が船。そこから青い絨毯に落ちれば溺れてしまう。危険な釣り。後に姉が来て、二人で狭い座布団に乗って釣りを満喫。なぜかその後、海への落とし合いが始まる。激しく小さな座布団を奪い合う。そのときはただエキサイティングして奪い合いを満喫していたのだが、その夜眠りにつく前、もし姉と私が本当に海に落ちて一人乗りの救命ボートが一艘しかなかったとき、どうしたらいいのだろうと思う。眠れなくなる。そして、母がより愛している方が生き延びればいい、という結論に至る。母が姉を愛していると言えば、姉にボートを譲る。私だと言えば、私がボートに乗ろう。だから、母にどっちをより愛しているか問った。それほどまでに当時私の世界のすべては母だったし、また26歳の私には思いつかない合理性を持っていた。私のそんな思いを、母は知らないかもしれない。たぶん私がいつか母になった日、幼い子供にそんなことを問われれも、それは子供の純粋な独占欲だと解釈するかもしれない。ともあれ、私の母の回答は完璧で、私はどうにかそのずれを、幸福な形で健康的に、育てることができたと思う。ただ。今でも不安に思う。基本的なそういうずれを、私は人生のどこかで発揮してはいないか。たとえば自分を金比羅だと思うような。そこまで大胆でなくても、いつか、私はかつての恋人に電話をしてこういうかもしれない。「ひさしぶり、元気?最近どう?ねえちょっと考えたんだけどさ、私、もうあなたと人生と共になんて考えてないし、関わりを持つ気はないんだけど、子供は欲しいの。あなたの精子をくれない?試験管にいれて。大丈夫。養育費を要求したり認知を求めたりなんていっさいしない。迷惑はかけないから」。そして断られて初めて、私はそのずれに気づいたりして。私のことだから、断られてすぐに、一瞬にしてその昂揚から醒めて自分のずれに愕然として、なんとか全力でフォローしようとするのだろう。「あはは。冗談だよ。どうしてるかな、と思っただけ」あるいは「いいじゃんケチ!どうせムダに出してゴミ箱に捨ててるんでしょ」とか。
その後、渋谷のスペイン料理屋にいった。表参道と渋谷の中間あたりにあるスペイン料理屋。ドアを開けた途端、そこはスペイン。土曜日の夕方なのに満席で、すごい活気。みんなが楽しそうに食事をしている。恰幅のいいスペイン人のおじさんが客に話しかけたりスペイン語で厨房に注文を伝えたりして。壁にはギター、そして落書き。白インゲン豆の煮込み、スパニッシュオムレツ、子ウサギの煮込みを食べる。とっても美味しい。赤ワインをごくごく飲む。できるなら大勢できていろいろなものを食べたい感じ。やっぱりレストランは活気が一番だね。楽しいレストランにいると、そこに自分がいないような気がしてくる。遠くで食事をする人々、目の前にいる人、遠近感がぐちゃぐちゃになる。グラスのぶつかる音、フライパンで何かが調理される音、私の発する言葉。どこから生まれた音なのか分からなくなる。映画を観ているみたい。私は傍観者。だってこんなにも幸せだから。
レストランを出ると、気温がぐっと下がっていて驚いた。やっと12月。ようやく12月。終わるべくして終わるもの。記憶の幸せだけでは、いやだわ。傍観者が、今の幸せを体に刻みつける方法を、ちょっと考えてみたりする。
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金毘羅

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