gift

その人は、金星で遭難した登山者を肉眼でみつけられるほどの視力を持つ。一方裸眼では手元の新聞の見出しさえ不確かな私の視力。できるなら、恋人はほぼ、同じくらいの視力の人がいい。
ある午後、そういう成り行きで、私は初めてコンタクトを装着していた。昼下がりの光の中、あまりにも視界が鮮やかで、目眩を起こしそうになる。細部まで、匂いまで、鼓動まで、激しく強烈で、思わず目を閉じる。目尻には涙がにじむほど。でも、もっと見たいわ。熟れた春の風が揺らすカーテンの波紋、そこから差し込む光の筋、その筋を辿っていくと私たちに行き着く。静かに沸き立つ物体。こんなリアルな世界、私には耐えられない。
知らなければ良かった。健康な人の目がもつ敏感な感覚を、忘れたきりでいられれば。でももはや、私はいつもその温度差を意識する。畏怖。
私たちの溝はますます深まる。


今日は身も心も寒かったのでランチは暖まるものを食べようと思った。駅前のお洒落な感じの店に入る。なんでも京風の出汁に特製のキムチを加えて野菜や肉などをぐつぐつ煮たなんとか鍋が売りらしい。4種類選べる辛さで一番辛いのを注文して、5分ほど待つ。運ばれてきたのは小さな鉄鍋に煮え切る赤い液体とご飯と小鉢。小鉢はひじきサラダ。ぐつぐついう異常に小さい鉄鍋はわずか30秒スパークしたあとすっかりおとなしくなる。ちょっと哀しい。食べてみたところ、ものすごく普通の味でした。別に特別美味しくもない。不味くもない。値段は950円。場所代や人件費や材料費を考えれば妥当だと思うが、それにしても微妙すぎ。まあ辛いから体は温まったし、鼻水だけはあとからあとから出てくる。食べながら先日あるフレンチレストランに行ったことを思いだした。まずくはない。シェフの人柄も良かったし、店内の雰囲気も、食材も悪くなかった。でも心に響く料理じゃない。本当に不思議。美味しい料理を作るシェフがいることと、美味しくない料理をつくるシェフがいること。美味しくない料理を作りたいシェフなんてきっといないだろう。たぶんそこが才能。それを思うと、哀しくなる。真面目に働き、フランスで修行をして、帰国して、さらに働いてようやく自分の店をもつ。そつなく仕事をこなすが、心底響くものは作れない。それはフレンチという土俵だったからかもしれない。もし立ち食い蕎麦屋なら、来店した客の期待を100%満たすシェフだったかもしれない。それは誰だって同じこと。私は自分の選択を誤ったかもしれない、といつも思う。あのフレンチレストランのシェフと私の影が重なる。ある日には影さえも私にはないのではないかと思う。