ネズミを生け贄に安眠を

金曜日、7時半過ぎに仕事を終えた私は、本格的な抜け殻だった。たぶん壊れていた。家には絶対に帰りたくなかったので、夕方ちょっと時間が空いたときにホテル業界に従事する友達に電話。ちょっと前になにかの懸賞であてた「ディズニーリゾートペア宿泊券2Dayパスポート付き」と引き換えに「今晩傷ついた猫のために癒しのホテルをとってくれない?できればパークハイアットロスト・イン・トランスレーションりたいな」と頼む。すべての叙述を無視して友人が手配してくれたのは恵比寿にある某高級ホテル。大健闘。大感謝。直接恵比寿に行こうかと思ったのだけど、どうしても羊のカレーが食べたかったのでまず渋谷に向かう。予約なしで金曜日の夜に入れるレストランでもないので期待してなかったが、到着するとちょうど2人客が席を立ったところ。白ワインのハーフボトルと、羊のカレーを頼む。顔なじみのシェフが出てきて、ホワイトアスパラのバリグール風とサーモンのテリーヌを是非にと進める。もちろんいただく。この季節フランス料理屋に行くとホワイトアスパラの料理を目にすると思うけど、今しか食べられないんでぜひ食べてください。ちゃんとフランスから空輸されてきたものなはず。今の時期は露地物が出回ってきて実も太り味もしっかりしてくる頃で、フランスの旬を感じるには最高です。サーモンのテリーヌは隠しメニュー。クリーミーなものを想像していたのだけど、全く違った。周りをさっと炙った香ばしいサーモンとズッキーニなどの野菜のどちらかというとクリアーなテリーヌが瑞々しいトマトソースと共にサーブされます。このトマトソース、甘くて良い意味の青臭さがあって、本当に大地の恵みを感じる。久しぶりに食事をしたという感じ。恵比寿にはタクシーで行く。死ぬほど疲れていたからもう金銭感覚もない。チェックインはごくスムーズ。部屋は16階のエグゼクティブダブル。素晴らしい。私の部屋よりもずっと広い。大理石の洗面台。ベッドはヘブンリー。美しい夜景。最高。ゆっくりゆっくりお風呂に入ってバスローブに身を包み、ベッドにごろり。寝返りは4回転半打てる。すぐに眠りが訪れそうだけど、無理に自分を引き止めたりする。友達に借りたまま鞄のなかに放りっぱなしのDVDの存在を思い出して再生してみる。プリティーウーマンだ。ははは。良い映画ですよね。男は美女が好き。女は金が好き。気の利いたことをしたのは支配人だけ。ほんと、良い映画だ。そして、ここにバカ女が一人バカ女が二人と数えながら眠りに堕ちる。起きると9時半。ルームサービスで朝食を食べてしばらくだらだらする。スパが使えるらしいんで、水着を借りてだらだら泳いだりサウナに入ったり。チェックアウトをした後しばらく恵比寿ガーデンプレイスを散策。映画を観ようかと思ったが今イチ観たい映画がなかった。まだ家に帰りたくはなかったので銀座に行く。夕方の銀座。久しぶりにぶらぶらとウィンドウショッピング。ブックファーストで辻静夫の「フランス料理を築いた人びと」なんかを買ってみる。そしてチケットショップの前を通りかかったとき、急に「ビッグ・フィッシュ」を観ようと思った。6時50分の回から観ることにする。
またお腹が空く。つばめグリルに入る。昨日から濃いものを体が欲しているみたい。つばめ風ハンブルグステーキとトマトのファルシーサラダを食べる。ビールを一杯飲む。何にも考えられない。眠いとか寒いとか美味しいとか痛いとかだけ。考えてるんじゃなくて感じているだけ。くるくる廻るウェイトレスの姿に見とれていたらどれくらい時間がたったかさっぱり分からなかったので携帯を見たら電源が切れていた。ああ、もう時刻を私に告げてくれるものさえないのね、と思いながら相変わらずくるくる廻るウェイトレスを呼び止めて時間を聴くと6時半。そろそろ映画館に行く時間ね。スカラ座は大きい。いや、もっと大きい映画館はたくさんあるんだろうけど、いつもユーロスペースとかシネマライズに行くんで途方もなく広く感じた。「ビッグ・フィッシュ」良かったです。想像してたよりずっと。家で見たらなんだこりゃといいそうではあるし、「フォレストガンプ」を強く思い出したが。それよりも私が面白かったのはこの秋公開予定の宮崎駿アニメの予告。いや、完璧に宮崎ワールドまっしぐらで、もしかしたら今度こそ私ついていけないかもってちょっとどきどきした。おばあちゃんの彼氏の声を木村拓哉がやるんですって。工藤静香と結婚してから(かどうかわからないけど)、私は木村拓哉の喋り方が大嫌いになってしまったんだな、まあどうでもいいけど。「ビッグ・フィッシュ」はなんの疑問も抱かずに素直に泣けてとても爽快でした。分かりやすくて本当に良かったです。
映画が終わって9時。まだ、家に帰る気にはならない。日比谷線に乗り、六本木で降りる。小雨。素足にミュールでめちゃくちゃ寒い。傘をどこかでなくしたのでマツキヨで300円の傘を買う。結構想い出のある傘だったのに、こんなにあっさりとなくしてしまった。そこまで悔しくもないけど、ちょっとだけせつない。六本木でバーに寄る。カルヴァドスを飲む。バーテンダーさんと話が弾み、吸えもしないのにシガリロをもらって格好だけ吸う。肺が痛い。食道がひゅーひゅーいう。それでも吸い込みたいと思う。マーレーマクダビットのスプリングバンク 1965年を飲む。続いてシールダイグのスキャパ 1977年を飲む。いずれも非常に落ち着いたモルトウィスキーだった。たぶん、自分よりも年上のモルトウィスキーを飲む事に意義があるのだろう、と思った。だから歳をとるだけ高いモルトウィスキーを飲まなくちゃいけない。はやく、一刻もはやく、今の歳のうちにいろいろなモルトウィスキーを飲まなくては、と焦った。渋谷までは歩いて帰る。小雨の中を歌いながら帰る。いくつか知っているバーがあったけど、もう帰ろうと思った。終電に間に合い乗り込むがやっぱり素直に家に帰れず、途中で降りる。TSUTAYAで映画を借りる。フェリーニの「81/2」と「奇人達の晩餐会」。坂本龍一のアルバムなんかも借りてみる。あてもなくちょっと街をふらつき、深夜でもにぎやかなカフェを横目でみて、黒猫を追いかけて路地を三回くらい曲がって、ようやく家に帰る気になった。
2時半過ぎに家に帰る。発狂寸前の私の匂いが染み付いているアパート。窓を開けて、はやく、新しい空気を。
シャワーを浴びて、水をごくごく飲んだら、急にものすごく眠くなって、ベッドに這い上がって、がくんと眠る。たぶん、ものすごく壊れたんだと、思う。